路傍に吹く風の如く

徒然なるままに〜とりとめのない話になりそうですが、日々感じたことや考えたこと、体験談や出来れば冒険談など紹介したいです。

古い記録〜「あの戦争上巻より」〜戦火の甲子園〜

昭和17年8月24日ー30日の記事です。

 

戦火の夏、甲子園沸く

 

昭和17年(1942年)8月29日、甲子園で全国中等学校野球大会の決勝戦が行われ、四国代表の徳島商業が京滋代表の平安中学を破って優勝した大会でした。

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甲子園大会は昭和16年から5年間は戦争のため中止と主催者側が発表されていた期間中のこの17年大会。

にも関わらず開催されたのですね、その背景は何だったのでしょうか?

昭和16年の夏といえば、まだ米国との戦争に突入する以前の事、主催者の朝日新聞社は例年通り大会の実施を発表していたのですが、大会直前の7月に国が突然中止通達を出します。

その主旨は、軍内部で南進するか北進するかで激論が続き、「関特演」と称して満州に70万の大軍を動員する作戦が8月でピークに達する予定だったので、国内の交通も全て軍優先となる。

これが中止の真相でした。

 

それが何故翌年の17年は開催されたのでしょうか?

通常主催者は朝日新聞社ですが、この年は文部省と大日本学徒体育振興会の共催による「全国中等、師範、教育体育大会」の一競技として開催されたのでした。

従来の「全国中等学校錬成野球大会」(現在の全国高校野球選手権大会)ではない開催でした。

国の思惑は、戦意高揚にあったのでしょう。

別の大会として開催されたので、その記録も夏の甲子園大会の記録から抹消され、徳島商業の優勝は幻の優勝となりました。

 

 

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大会の出場校と結果

この大会は、そのほか変なルールが特別ルールとして強制されています。

 

まずは、優勝しても記録には残らない、これは先に書いた通り別の大会だから。

その他、死球はナシバッターも死球を避けてはならない!

選手の交代は出来ない! などなど

詳しくはこんな本もあります

 

昭和十七年の夏 幻の甲子園―戦時下の球児たち (文春文庫)

昭和十七年の夏 幻の甲子園―戦時下の球児たち (文春文庫)

 

 

大会の優勝旗は通常の「深紅の大旗」ではなくて「智仁勇」と書かれた小さな幟のような旗だったそうです。

 

しかし、と言ってはなんですが、この大会に出場した球児の皆さんは徴兵年齢ぎりぎりだったこともあり、そのほとんどが戦争を生き延び戦後も活躍したそうです。

その後のこと、昭和52年夏、徳島市を訪れた、当時の文部大臣海部俊樹氏に徳島商業の監督を勤めていた稲原幸雄さんが、この幻の大会の話をしたところ話がトントン拍子に進んで、改めて優勝盾と表彰状が徳島商業に贈られたそうです。

俊樹ちゃん!(そう呼ばれていましたね、水玉ネクタイの後の海部総理ですね)

いい事しましたね。

それにしても、この幻の17年大会も、そろそろ公認されて高校野球の歴史に刻まれる、なんて事にならないものですかね。

 

では、今回はこのあたりで。